00 // 始まりの夜


 暗く陰湿な森を、足を引きずりながら歩いていた。


「は・・・ぐ、ぅ・・・ぁっ」


 全身にはしる裂傷からは、炎によって照らされた紅い血が止まることなく流れ出している。徐々に動かしづらくなる体は、血を失いすぎたことだけが原因ではない。今まさに悪魔が私の身体を乗っ取っていっているのだから。


 力の入らない手足を気力のみで前へと動かし、少しずつだが進んでいく。
 噛みしめ過ぎた奥歯からは、血の味しかしない。


(はやく、早く森の外へ出なければ・・・っ)


 この身に憑依した悪魔が、完全に私の体になじむ前に。
 森を覆うあの結界を越えることができたなら、力の戻っていない悪魔は弾かれて、この森に取り残されるはず。


『おやおや。何をそんなに急いでいるのかと思えば、そんなことを考えていたんですねぇ』


 頭の中で、自分とは違う声が響く。
 欝蒼とした森によく似合う、寒気のするほどの魔力を乗せて。
 ぶるりと背筋に悪寒が走った。


『卑小なニンゲンにしては頭が回りますね。確かにまだ私は貴方の身体を乗っ取れてはいません。
 今の状態で結界を通り抜ければ、私はこの身体からはじき出されるでしょう。
 ――――ですが』


 くつくつと、嘲りを乗せて悪魔は嗤う。
 

『この森を抜けるほどの時間を、私が残しているとでも思いましたか?』

「―――だまれ!」


 声を荒げて、聞こえてくる声を振りはらう。ギリ、と奥歯を噛みしめて、また一歩前へ足を踏み出していく。
 時間がないのはとっくに分かりきっている。森への出口は遥かに遠く、急く心と心臓とは裏腹に、血の抜けた身体は思ったように前に進んでくれない。
 いかに召喚術といえど、失った血を再生することまでは叶わない。
 今、残された魔力で呼べるのはリプシーくらい。状況を打破するほどの体力の回復は見込めない。


(何か、身体を支えられるものは・・・)


 長い間愛用していたロッドは、すでに破壊されていた。
 何か代わりになるものはないか、と足を止めぬまま懐を漁れば目に留まったのは無色のサモナイト石。

 ―――確かこれは、鉄の棒だった気がする。

 無属性の召喚、これぐらいの魔力を使ってもそれほど体力には響かない。
 薄れる意識を無理やり繋ぎ止めて、透明な石に魔力を籠めていく。

 しかし、いつも通りの反応をするはずの石は、通常の倍以上の光を発しだした。


(この反応は―――暴発!なんてことだ、こんなときに失敗をするなんて!)


 先ほどよりも溢れる、いや暴走によって無理やり引きずり出される魔力を抑えようと、焦る心をどうにか落ち着かせて両手でサモナイト石を握った。


 だが、体力の尽きる寸前の体は、軽い石すら支えることも出来ず。

 透明な光る石は、私の手から離れてしまった。


「・・・っ、まずい!!」


 これでは強い制約を掛けて抑えることもできない。石の光の強さに耐えきれず、思わず目をつぶりながら彼はふと頭の隅で思った。


 ―――これで、よかったのかも知れない。
 この身体が完全に朽ちてしまえば、流石の高位の悪魔とて寄代として使用できないだろう。


 生きることはとうに諦めた。


 任務に失敗し、部下も死に絶え―――今回の件の報告はきっと獅子将軍が行ってくれるだろう。
 あの方ならば、この森でも抜け出せる。
 元老院に報告して、それでこの森の危険性を伝えて―――


(愚かな願いなど、諦めてくれればいい)


 どうして自分の国は、民の幸せを考えないのだろう。


 幼いころから何度も何度も浮かんだ疑問に、答えてくれるものはいない。ただ、くつり、と悪魔が嗤う声がした気がした。


 ―――目を閉じていた彼は気づかなかった。目の前に人の気配が増えたことに。

 
 しばらくたっても衝撃が来ないことに対して疑問が浮かび、そろそろと閉じた瞼を開ける。炎に彩られた視界の先には、首を傾げた少年がいた。
 白い半そでの上着を炎の色で紅く染め、熱によって煽られる茶色の髪は、今は見えぬ月を模したように金色にきらめく。

 どう見ても、鉄の棒などという無機質な物体には見えなかった。


「失敗・・・・・した?」


 思わずつぶやいた言葉に、目の前の少年が振り返る。
 ―――幼い少年だった。年のころは10を超えた程度か、大きな眼でこちらを見ていて、表情は驚きの色に染められている。
 
 当たり前だ、いきなりこんな凄惨な場所に召喚されたのだから。
 無機物しか呼べないはずの無色のサモナイト石で、生物が呼べたのは失敗した由縁か。彼の手に握られた鉄の棒を見る限り、少年が棒を手にした状態で呼んでしまったのだろう。

 可哀そうなことをした。

 自分では、彼を元の世界に帰せない。彼を戻す、時間がない。


「すみません、召喚に失敗してしまったみたいです。貴方はシルターンの人間でしょうか?」
「へ?召喚ってなに・・・シルターンって地名か国名か何かのことか?」


 問いかけにキョトンとした顔を見せる少年に、思考が一瞬停止する。
 何を聞いているんだろう、自分は。無色のサモナイト石の暴走で召喚してしまったのだから、少年は名も無き世界の住人だと予想できるだろうに。

 "リィンバウム以外で人が住む世界=シルターン"という公式が出来上がってしまっていた為か。


 名も無き世界に人が住んでいても別段不思議ではない。失敗した際に落ちてくる物は、明らかに何者かの手を加えて作られたものだったから。加工できているということは、なにかしら文明が存在するということだ。


「あー、召喚先ってのは決まっているもんなのか?しかも誰でも知ってるくらいに」
「え?ええ・・・この世界、リィンバウムを中心に4つの世界があります」


 どう説明しようと言いよどんだことに気づいたのか、少年は頬を掻きながら困ったように笑う。
 無理やり召喚されたということは、本来ならば突然誘拐されたようなもの。怒鳴り散らすことが普通だというのに、少年はどれもしなかった。


「・・・そういう風に聞かれるということは、貴方は召喚術自体を知らないと言うことですか?」
「小説の中じゃ王道な魔法なんだけどなぁ。実際に体験したのも見たのも初めてだわ」


 からから、と楽しそうに笑う彼に、戸惑う。
 なぜ、そう笑っていられるのだろうか。辺りを見回せばデグレア兵の死体が転々と転がっているのに。むせ返るような血の臭いも、喉の奥を炙るような炎の熱も、彼が気づかないわけがない。


「―――召喚術自体を知らないのなら、今の状況が疑問だらけでしょうね」


 そう、疑問だらけのはずなのだ。
 彼自身が、なぜこの惨状に立っているのか。


「召喚術とは異世界の存在とサモナイト石・・・これのことですが、この石を介して契約をする術です」


 透明な、未だ淡い光を放つ石を少年に見せる。


「何て書いてあるんだこれ・・・・って、『鉄パイプ』?」


 無色のサモナイト石を覗き込んで、そこに刻み込まれた文字を少年はあっさりと読んだ。この文字はシルターンで使われているものだったが、やはり名も無き世界でも使われているらしい。
 その点はとても興味深いことで少年にいろいろ聞きたいくらい・・・だが、今の状況ではさすがに不可能だろう。


「石には契約対象の真名が記されます。術師は真名を知ることで召喚対象を制約で縛るんです」
「縛るって言い方をするに、両者の力関係は対等じゃないと?」


 ―――やはり、この少年は聡い。


「その通りです。制約によって召喚対象は術師に逆らえず、又元の世界に帰せるのが召喚した術師のみの為、言うことを聞かないといけない状態ですね」
「人使いが荒いにもほどがあるなオイ」
「耳が痛いですねぇ」


 召喚師と召喚獣のあり方をあっさりと否定できるのは、彼がこの世界の住人ではないからだろう。召喚獣は召喚師に従うもの―――それが召喚術というものなのだから。
 彼が自分たちを否定するのはわかっていた。どの世界にでも突然呼び出されて、命令されて喜ぶものなど無いだろう。忠誠を誓った主従ならばともかく、彼は私とはまったく関わりが無い上に―――私は彼を帰すことすら出来ないのだから。


 ―――もう時間が無い。


 力が抜けていく感覚に、説明をするのは彼とともに森を出てからにすればよかった、と少しだけ後悔した。思わず自嘲の笑みが口元に浮かぶ。


「チッ・・・ゴメン、その怪我じゃ話すのもつらかっただろ」


 少年は私の怪我に改めて気づいた様子で、舌打ちをした後徐に薄手の上着を引き裂き始めた。白く長い布切れとなったそれを手にとって、彼は私の血にまみれた手を取る。

 だが、少年の手の熱を―――私は感じ取ることが出来なかった。


 ああ―――本当にもう、時間がない―――


「その気持ちだけありがたく頂いておきますよ。ですが、私は助かりません」


 私の手の冷たさに驚いたのか、眉をひそめた少年に私は静かに告げる。


「そんなこと・・・!まだアンタは生きてるじゃないか」
「それも時間の問題です。これでも軍に従事してきましたから、自分の限界はわかってます。魔力も尽きてしまった上に、あの化け物に意識を奪われそうになっているのですから」


 震える体は、もう自分の思うとおりに動かない。血を流しすぎた、魔力を使いすぎた。召喚術が暴走したのも致命的だった。もう私には―――抗える力が残っていない。

 私の手を強く握り顔を覗き込む少年に、なるべく優しく笑えるように努めて口元をゆがめさせる。そっと彼の頬に手を当てるが、やはり温度は感じられなかった。


「取り憑かれた、といいますか。この森にいた悪魔に憑依されてしまったんです。いまはまだ私の意識が表にいますが、何時取って代われるか・・・・わかりません」


 今この瞬間、取って代わられるかわからない。だが、今だけは奪われるつもりはない。


「貴方には本当に申し訳ないことをしました。事故とはいえ、巻き込んでしまった上にあなたを守ることさえ出来ないのですから。
 もうすぐ私の意識は完全に消えてしまうでしょう。そうなる前に逃げてください、私の身体を手に入れた悪魔が貴方を襲う前に」


 この少年だけは、この森から逃がさないといけない。
 それが巻き込んでしまった彼への、召喚主としての最低限の義務。

 目を見張る彼に、私は懐に抱いていた短剣を取り出す。守りの術が刻まれた短剣・・・これさえあれば低レベルなはぐれ達は彼に近づいてこない。

 昔、召喚師だった母親が成人の祝いにと贈ってくれたもの。
 もう、先のない私には不要なものだから。せめて、私の代わりに彼を守ってくれるように。


「この世界には野盗や召喚師とはぐれた召喚獣がたくさんいます。その短剣は身を守るのに必要でしょうから差し上げます」
「アンタを置いていけってのか?」
「言ったでしょう、私は助からないと」


 短剣を彼の手に押し付けて、それでも渋る様子に思わず声を荒げる。

 逃げないといけないんです。この森から、いえ、私から。一刻でも早く離れないと、この場所から離れた悪魔が戻ってきてしまう。


『そうですねぇ。大分集まってきたみたいですよ?こんなところで話しているから』


「・・・今はこの森も静かなものですが、本来ここは悪魔が多く住んでいるんです。私に憑いた悪魔に恐れて姿を見せませんが、私の意識が消えた途端、貴方に襲い掛かるでしょう」
「・・・アンタに憑いているのは、そんなにレベルが高い悪魔なのか?」


 彼の言葉に浮かび上がったのは過去の記憶。少年を呼び出す前に起きた惨劇。わが国の精鋭たちが、成すすべもなく塵にされたあの―――


「ええ・・・・私が見たどの悪魔よりも、はるかに感じる魔力が違すぎる・・・」


 頭の中に、耳にこびりつく同胞たちの悲鳴と悪魔の嘲笑。
 実力が違いすぎた。身の程知らずだった。真実を捻じ曲げて伝わった伝承は、あまりにも理不尽な力の差で同胞たちを屠る。

 そして、それでも悪魔は本気を出していないのだろう。

 目を瞑り、俯いていると不意に体に回った腕にびくりと肩を揺らした。
 驚いて目を開くと、少年がそっと私の体を抱きしめていた。

 小さい体で、できる限り安心させるように、慈しむように優しく。


 「うまく逃げきる自信ないし、このままアンタと一緒にいるよ」


 なんてことのないように、楽しげに彼はそんなことを言った。


 「な、何を言って・・・」


 何をしているんです。早く逃げてください。私などに構っている暇はないでしょう!
 そう言おうとしたはずだった。そう言ったつもりだった。

 でも、私の喉からは声がでてはこなかった。

 言葉に詰まる私に、少年は優しい声でなおも言う。


 「最後くらい、わがまま言ってもいーんじゃねー?こんな森で、一人で消えていくのは寂しいだろ?」


 あまりにも優しく、残酷な一言だった。


 酷い人だ。最後くらい綺麗なままで、人道に基づいた行動をしたかったのに。

 少年を助けることで、後悔のないまま死んでいこうと思っていたのに。

 こんな愚かな私でさえも、誰かを救うことができたのだと、思いたかったのに。


 「・・・っ」


 ―――決意が、揺らいでしまった。


 一人で死ぬのは嫌だった。
 この森は暗くて寂しくて、笑いあった同胞も先に死んでしまって。

 任務が終わったら、軍を辞めるつもりだった。
 召喚師の家系だったから、その手ほどきを受けて軍属になったけれど、本当は小さい頃から世界を巡る吟遊詩人になりたかった。

 世界を回って、様々な人と話をして、琴の音に詩をのせながら、晴れ渡る空の下で唄いたかった。

 もうすぐで、その夢が叶うと思っていた。


 綺麗な声だ、と褒めてくれた上司も。
 宴会のメインは先輩の歌ですねと慕ってくれた後輩も。


 いない。誰もいない。私を知っている人はこの森にはいない。


 そんな中、暴走によって少年が召喚された。

(ほっとしたんだ。罪悪感よりも一人じゃないということに、私は愚かにも安堵してしまった)


 私は縋る。少年の優しさに。死の淵に与えられた温もりに。
 彼の背に腕を回し、幼子のように抱きしめられた私の背を、少年は何度も撫でた。


 「すみません」


 あなたを守れない私に。


 「気にすんな」

 「巻き込んでしまった」


 貴方の生をここで費やすことに。


 「ある意味俺の自業自得だ。光ってる鉄パイプ手放せばよかったんだからな」

 「ごめんなさい」


 暴走して召喚したことを喜んでしまった私に。


 「だからいーって。俺も一人で死ぬの寂しいもん」


 少年は最後まで変わりなく、彼のままであり続けるのだろうか。

 ありがとう、という言葉に、笑いを含んだ声でおう、と彼は返事をした。